平成4年(1992年)
高野進氏はオリンピック400メートルで日本人として初めて決勝に残り明るい話題を提供、みのもんた氏は日本テレビの「おもいッきりテレビ」で社会明朗化の一翼を担ったこと、植木等氏は昔のユーモアを見事に復活させたこと、などでゆうもあ大賞を授賞された
植木 等(タレント)
昔のゆうもあをみごと復活させた高野 進(オリンピック選手)
日本人未踏の四百メートルに入賞、奥様から金メダルをもらうみのもんた(アナウンサー)
社会明朗化運動の一翼をおもいっきりテレビで担った平成3年(1991年)
間寛平氏はスパルタロンに参加し、346.5キロを完走し明るい話題を提供したこと、逸見政孝氏は司会者としての範疇を逸脱しても不思議な人気があることで、山田洋次氏は江戸時代からの庶民の善意と人間性のよさを映画で表現したことで表彰された。
逸見 政孝(アナウンサー)
司会者の範疇を逸脱していても不思議な人気間 寛平(タレント)
スパルタロンに参加346.5キロを完走明るい話題を提供山田 洋次(映画監督)
江戸時代からの庶民の善意と人間性のよさを映画で表現平成2年(1990年)
TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」でおばさんたちを完全に虜にした大沢悠里氏、競馬の世界をギャンブルからスポーツに変えた武豊氏、新しい形の声帯模写を創り上げたコロッケ氏の3名が、平成2年度のゆうもあ大賞に選ばれた。
武 豊(騎手)
競馬の世界を、ただのギャンブルからスポーツの世界に変えた。大沢 悠里(アナウンサー)
ラジオで、おばさん達を完全にとりこにした。コロッケ(タレント)
人にからかわれたりしながら、新しい形の声帯模写を作りあげた。平成1年(1989年)
さもあたるが如く直立不動で天気予報を伝えた福井敏雄氏、真面目な中にもユーモアを感じさせたケントデリカット氏、アイドルとはいえないのに、高感度ナンバーワンになった山田邦子氏に授賞。授賞式当日は関西テレビ「アタック600」のお天気コーナーで、帝国ホテルの舞台から福井氏の生中継を行った
ケント・デリカット(タレント)
真面目のなかに溢れるユーモアを感じさせる。福井 敏雄(タレント)
直立不動で、さも当たるが如くに天気予報を伝える。山田 邦子(タレント)
美人タレントでもないのに好感度ナンバーワンとなった。昭和62年(1987年)
衣笠祥雄氏はボールに当たっても痛がらず、鉄人の新語を生み出し、2215回連続出場を成し遂げた。久米宏氏は女性にも興味を持たせるニュース番組の新スタイルを創り出した。アントンウィッキー氏はユーモア英会話で日本人の外国人コンプレックスを取り除いた。
アントン・ウイッキー(タレント)
ユーモア英会話で外人コンプレックスを取り除いてくれた。衣笠 祥雄(プロ野球選手)
痛がらず鉄人の新語を生み2215回連続出場記録。久米 宏(タレント)
女性にも興味をもたせるニュースの新スタイルを作った。昭和61年(1986年)
中野浩一氏は国際レースでV10を達成し、スポーツ界に明るい話題を提供した。豊原ミツ子氏は働く楽しさを笑いの中に示し、勤労意欲を誘った。タモリ氏は明るい流行語を作った。写真は、副賞の金の耳掻きでポーズをとる受賞者。
タモリ(タレント)
明るい流行語をつくった。豊原 ミツ子(タレント)
働く楽しさを笑いの中に示し皆の勤労意欲をさそった。中野 浩一(競輪選手)
国際レースでV10を達成、スポーツ界に明るい話題。昭和60年(1985年)
生方恵一氏はNHK紅白歌合戦の司会で人間味溢れる美空発言で、塩沢トキ氏は病を克服し、超大型のヘアースタイルで笑いを提供したことで、日本テレビの佐藤孝吉氏はカルガモの引越しの撮影に成功したことで授賞。この年から会場を帝国ホテルに移した。
生方 恵一(アナウンサー)
人間的な雰囲気紅白の場面で。佐藤 孝吉(日本テレビ)
かる鴨の引越し撮影に成功。塩沢 とき(タレント)
病を克服、大型ヘアスタイルで笑いを提供。昭和59年(1984年)
ビートたけし氏は独特のジョークをあみだしたことで、浦辺粂子氏は60を過ぎて新人歌手になったこと、山田直稔氏は自称オリンピック応援団長として活躍したことで授賞
浦辺 粂子(女優)
80歳を過ぎて新人歌手になる。ビートたけし(タレント)
独自のジョークをあみだした。山田 直稔(浪速商事会長)
オリンピック自称応援団として各国にでかける。昭和58年(1983年)
畑正憲氏は動物愛を通じさわやかでほのぼのとしたユーモアを与えてくれたこと、萩本欽一氏は特異なタレントの養成と軽妙なおしゃべりを茶の間に浸透させたこと、小林完吾氏は面白まじめの放送局でまじめアナウンサーとして活躍したことが授賞の理由だった
小林 完吾(日テレ・アナ)
面白まじめ放送局のまじめアナウンサーとして活躍。萩本 欽一(タレント)
特異なタレント養成と軽妙なおしゃべりを茶の間に。畑 正憲(作家)
体験的動物愛を通じ、さわやかでほのぼのしたユーモアを。昭和57年(1982年)
鈴木健二氏は「面白ゼミナール」など、三波伸介氏は「減点パパ」「笑点」なでのユーモア溢れる司会振りが、フジテレビのひょうきんディレクターズは演出の立場にありながら出たがりやの精神を発揮したことが授賞対象(大賞)になった。三波伸介氏は授賞が決まった後に没し、遺影への授賞となった。